曇天パッチ

『殴る、斬る、撃つ』 暴力エンターテイメント好きの視点

運命に対する冒涜『バイオショック インフィニット』


バイオショック インフィニット日本語版トレーラー"City in the Sky" PS3®専用ソフトウェア - YouTube

銀と金』という漫画に「運命に対する冒涜」という台詞がある。起こった出来事に対して「もし~を選んでいたら」というのは誰でも考えることだが、賢明な選択をしたあとでもう一方の選択がどうだったか覗く行為は運命を冒涜している、という意味だ。 

この「もし~を選んでいたら」を覗くことができるのは創作世界の特権だろう。そして、その特権を自分自身で試行錯誤できるのがビデオゲームの醍醐味だ。 
例えばアドベンチャーゲーム。プレイヤーが選択肢を選択することによりストーリーが進行する。エンディングを迎えたあとも、選択肢を変更することで異なるストーリー・エンディングを繰り返し楽しむことができる。ファーストパーソンシューター(FPS)にしてもそうだ。シングルプレイモードでは、プレイヤーが予期せぬ死を迎えた場合は直前からリトライすることができ、試行錯誤しながらステージを攻略することができる。 
こうした「運命に対する冒涜」はゲームならではの楽しみだが、同時に多くのゲームでは「リトライ=死」であるという本質は薄れがちだ。 
ゲームの歴史は、誕生した瞬間からチェスやピンボールで相手を倒すものであったにも関わらず、「死」は新たな「生」への繋ぎでしかなかった。FPSの世界では、際限なく繰り返されるノルマンディー上陸作戦や、カジュアル化する戦争により、「死」は年々その重さがなくなりつつある。こうしたシステムの根幹部分への意識の低さが、やがてゲームの進化の停滞を招くのではないかと個人的には懸念している。 

バイオショック インフィニット』は「運命に対する冒涜」に作劇の面からアプローチした稀有な作品だ。 
主人公がシナリオ上の都合で目標が達成できなかったときに、ヒロイン・エリザベスによって運命の改変が行われる。敵に殺されリトライ(難易度ハードでプレイしたからであって、別にプレイヤーがヘボいわけではない)を繰り返していると、気軽に行っているリトライですら運命の改変であることに気付き、コントローラーを握る手の発汗量は増え、両肩にはキャラクタを死なせてしまった責任が重くのし掛かってくる。ビデオゲームの歴史において、これほどまでリトライボタンを押すことを躊躇わせる作品があっただろうか。 
このアプローチは、シリーズ一作目『バイオショック』に見られた死亡のリスクが殆どないためゴリ押しできてしまうゲームデザインの欠点すら、ビデオゲームの構造を利用した作劇の巧妙さにより乗り越えてみせたという点でも斬新だ。 

ビデオゲームはこれまで映画に近いメディアを目指して進化を続けてきた。それはこれからも変わらないだろう。今年PS4とXboxOneが発売されることにより、据置機におけるグラフィックは現行のPCに追いつくことになる。リアルタイムレンダリングの映像と、プリレンダリングの映像を判別するのはますます難しくなり、より一層映画へ近づくこととなる。 
それでも忘れてはならないことがある。ビデオゲームとは、プレイヤーが操作することで進行し、画面上の事象に主体的になって介入していくものである。『バイオショック インフィニット』が2013年を代表する傑作である理由は、進化を続ける据置機において、プレイヤーがコントローラーを操作することに責任を感じさせることだ。ゲームは映画のように受動的な娯楽ではない。